箱雑記ブログ

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神保町花月『籠の城』

見てきました。がっつり前のめりで見てしまった結果、この公演にどっぷりハマってしまったため、いつにも増して気持ち悪い感想になっていると思います。様々な解釈が生まれる公演だなあと思うのですが(公演後ご飯食べながらああだこうだの話がまー盛り上がる盛り上がる)、解釈云々については別にして、ともかく感じたことを並べていきたいと思います。
千秋楽公演後のトークライブにて生みの親である田所先生による脚本のお話や、演じる側の皆さんのお話のいろいろが出ているので、それをご覧になられた方には私の以下の感想はかなり的外れになっていると思いますが、その点についてはあえて目をつぶっていただけると嬉しいです。以下盛大にネタバレしつつ感想。流れがまったくまとまっていない上に長いので、だいぶ読みにくいです。すみません。



記憶を失った男を軸にして、籠=城と呼ばれる閉ざされた世界におけるおかしな常識と、その常識に縛られる住人達のお話。簡単に言いすぎですが、ストーリーを全部説明するのは本当に難しいです。ひとつの閉ざされた世界の中に、支配する側=城側の人間と、支配される側=籠側の人間がいる、というのが大前提で、その支配の形は見ているこちらからしたら非常におかしい、でも支配される側はまったく疑問に思うことはない。なぜならそれが常識だから。そういう大前提があって、そこからお話が動いていくのですが、それにしても、テーマも去ることながら、世界観がとても好きでした。


これを見ながら考えたことは、田所先生はこの話を作る際にどこを出発点としたのか?という点です。「籠城」という言葉からか、世界(舞台)からか、テーマからか。籠城→籠と城→支配する側される側と世界を膨らませていったんだとしたらそれすごくないか、と思いますし、テーマ先行だとしたら、田所先生の中に「強い思いは具現化する」というものが生まれていたということにうわーとなってしまう。ライスのネタを見るときにたまに思う、「このネタをこういう風に見せるのか」という点を、お芝居の中でもやはり感じました。アプローチの仕方について、ものすごく多くのふり幅を田所先生はお持ちなのかも。それはイコール田所先生の中に広がる世界の奥の深さだったりするのかな。


「閉じられた世界に足りないものがあって、それを外の人間が持ってくる」という構図が、ちょうどこの公演を見たときに読んでいた伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』とリンクするようで、見ていて少しどっきりしました。お話としてはもうまったく別物なのですが、そのキーワードのリンクぶりに驚いたというか。ただのタイミングだったのですが、そのタイミングが良すぎてびっくりしまして(笑)
自分の意志だとか、希望だとか、そういうごく前向きで輝かしいものが存在しない、そしてそれが当たり前だという世界は、そこに生きる人達は辛い顔も不満な顔もしていないけれど、あまりにもいびつで、だからこそ、そこから脱却するまでの心の動きのシーンは、相当胸に迫るところがありました。知らなかった感情を知る瞬間、あるはずのないものを与えられた瞬間のカタルシスが目の前で展開されていく様は迫力です。押見さん扮するウミネコの叫びで、ヤマシギとモズからあるはずのない自由への渇望が引っ張り出されるあの場面が、私はとても好きでした。
なぜか「価値ある人生ってなんだよ、教えてくれよ!」のくだりがとても好きで印象に残っています。この手前くらいまでは、ヤマシギはまだシニカルに笑いながらウミネコの話を聞いているのだけれど、ここで余裕がなくなる感じが好きで。「価値ある人生」というフレーズは、とても重いなあと思います。そしてそれを分からないとヤマシギが問う様は、それまでのいびつな価値観を当たり前と思っていたヤマシギよりもはるかに人間臭いというか、「おかしくない」と思えたので。
人に命令されて生活することは、自分で考える必要がないのでとても楽な生活なのだというのは何かで見たことがありますが、まさにそういう世界だからこそ、楽な生活よりも自分の生活に疑問を持つことが難しくて、それだけにここの展開にパワーがないと説得力がないのかな、と。


押見さん扮するウミネコがこのお話の核となる人物なのですが、面白いなあと思ったのは、記憶を失っているという大前提があるにしても、他の三人の籠側の人間の中で、ウミネコの存在って浮いてるなあと思えるところ。なんというか、同じような服装をしているのに、小奇麗に見えたんです。子供の中にひとりだけ知識人がまぎれこんでいるような違和感。押見さんの存在感ゆえなのかもしれませんが、面白いなあと。ちゃんと異分子なんですよね。
だから、記憶を失ってから目を覚まして、1ヵ月後のウミネコが、他の三人と一緒に支配される側として淡々と生活しているのが、ちょっと恐ろしかったり。こうやって慣れていってしまうのかな、と思えて、ああこれは怖いなあと。
押見さんは最初に見たときよりも、週末に見たときの方が全然良く見えて、スロースターターなのかなーというのを改めて感じたのでした。最初が悪かったとかではなく、最初も良かったのに、もっとよくなってて驚いた、という意味です、もちろん。私、ヤマシギとモズに「ヤツガシラが殺されなきゃいけないようなことをしたか?」と詰め寄るシーンで、一度鳥の鳴き声に気づいたウミネコが、空を見上げて、それから顔をぐしゃぐしゃにする時の、あのどうしようもない表情が大好きでした。押見さんすごいなあ、とあのシーンでしみじみ思ってました。


好きなシーンといえば、雷雨の中逃げ出した三人が、壁が途切れて外と中をつなぐ場所にたどり着いたとき、モズにだけそこに「でっかくて頑丈な扉」が見えてしまったところが、個人的にとても好きなエピソードです。奇しくも田所先生のお気に入りシーンと一緒だったようで、私はどこまでこの先生の手のひらの上なのかとまた悔しさがこみ上げてきたものです(笑)
外に出たいと思って二人と一緒に逃げ出してきたのに、二人には見えない扉が見えたときのモズの心境を考えると、胸が痛くてたまりません。考えてみれば、長い間誰も思いつきもしなかった「外へ出る」という行動が、そんなに簡単に実行に移せるわけがないのかも。伝達が言っていた「数人が自分の意志を持ったということだけでも奇跡かもしれない」というのは、本当にそうだなあと思うのです。ついさっきまで、外に出るという発想そのものが存在しなかったわけですから。未知の世界が怖いのは何もこの世界の住人に限ったことではなくて、今よりも悪い生活になるかもしれないリスクを考えたら、恐ろしいことに決まってる。分かっていても出ることが出来ない住人がいる、というリアリティが、とにかくいいなあと思えるエピソードです。
扉が見えたときに、モズが自分のことを「俺は弱かったんだ」と言っていたから、二人には見えない扉が自分には見えてしまったとき、悔しいとか情けないとか、そういうことも感じたのかもしれないなあ。だからこそ、ウミネコが「それも立派な意志だ」と告げることで、救われて、「ありがとう」と言ったのかも。このシーンでのモズの心情を色々と深読みすると、なんとも言えない気持ちになります。同時に、このシーンでのかたつむり林くんのお芝居が本当に繊細で素敵だったのも思い出して、よかったなあとしみじみ思ったりもします。


モズとは対極に、ウミネコから外の世界のことを聞いて、外の世界への憧れだけを芽生えさせたヤツガシラは、すごくキーパーソンだったな、と。明確に違反をするという気持ちを持っているというより、ただただ外へ出たいという衝動に突き動かされた存在だったのですが、そのひたむきさと危うさのバランスがとても魅力的でした。関町さんの魅力というのも大いにあるのかと思いますが、子供のような無邪気なキャラクターだからこそ、外の世界への思いそのままに一直線に走ってしまったという様子がまたいいんです。外の世界へ出ようとする衝動、外へ出たいという感情の爆発が、それまでの彼らの常識である「規則を守る」というものを凌駕してしまう、それほどに強い思いで結局命を晒すことさえ厭わなかった、というのは、この世界で初めて自分の意志で規則を犯す存在として、とても鮮烈だったなあと思います。ヤツガシラの思いは純粋すぎてキラキラしていたなあ。好きなもののためにそうせざるを得なかった、というヤツガシラの真っ直ぐさが眩しかったです。


それでも、ヤツガシラはこのお話の中では外へ出るには至っておらず(これ以降にウミネコとヤマシギを追って外へ出る可能性は大きいけれど)、モズは外の世界への恐怖により籠の中に残ることを決め、ウミネコはそもそも外の世界からやってきた異分子だとすると、実際に籠の中の人間で、外に出ることが出来たのは、実質的にはヤマシギしかいないということになるんですよね。ヤマシギは全編通して案内役というか、役柄としてはあまり大きな役割を持たないように見えるんですけど、結果として一番大きな変化があったのって実はヤマシギだったのかな、と思えなくもないので、そこらへんをもっと掘り下げたものも見てみたかったというのが本音です。スポットの当たり方がちょっと地味というかなんというか、なので、あれでキャラを主張させるのって難しいのかな、と思ったのですが、村上さんはすごく良かったなあと。お行儀の良い役よりも、ああいう粗野で直情的な役の村上さんは、ちょっと野蛮な魅力があって見てて新鮮だし、見ててわくわくしました。


それにしても私は、つくづく演じるという作業をしている池谷さんに弱すぎる自分を再確認しました。桃太郎以来の池谷さんショックです。伝達という役は、城側の人間でありながら籠側のウミネコに気安く話しかけてきたり、でもしっかり城側の他の人間ともごく自然にコミュニケーションを取っていて、それら相反する二つの作業をまったく同じトーンというか熱で演じているのが、逆に伝達という存在を浮き立たせているように見えました。生活感がないんですよね。それが好き。監視と評価は一緒に飲んでるシーンもあるし、刑罰はスーツにひとこと申す(笑)みたいなところもあって、すごく人間臭さを出しているんですけど、伝達にはそういう生活感というか人間臭さというか体温みたいなものが感じられなくて、例えば監視と評価のことを話しているシーンで「俺あいつ嫌い」なんてことをぽろっともらすのを見て逆に違和感、みたいな。どこまでも、籠=城の中の住人から一線を置いて存在しているような印象が、それこそ初めて見たときからありました。だから、最後に伝達の存在はウミネコの強い思いが作り出したもの、と分かった瞬間、なるほど、と。それが本当にしっくりきて、すとんと腑に落ちたものです。
それらの色々な伝達としての存在感、そこに伴う説得力が凄い。池谷さんのお芝居には、技巧とかはそんなに感じないのですが、凄まじい説得力がある、と思いました。それがもう、素晴らしいなあと、感激しっぱなしです。それを私が感じた最たるものがラストシーンの伝達なのですが。あの小さな表情ひとつひとつに、これでもかと心が揺さぶられるのです。細かいところですけど、ウミネコに言う「行け」のひとこともすごく好き。
だから、籠側の人間達が初めて自分の意志を持って戦う、という大きなテーマとは別に、こんなラストシーンで語られる伝達という存在へのアプローチ、というか、伝達を作り出した「強い思いが無かったものを作り出す」という中の世界の特性へのアプローチも、もうちょっとあったら楽しかったのかな、と。ただ、あれを深く追求すると色んなことがこんがらがってパラドックスが起きちゃうかもしれないから、このくらいのほどほどさ加減でよかったのかも?トークライブでも、家城さんと田所先生が世界観のすり合わせをしていた際に、田所先生本人もこんがらかったという話が出てましたし。
伝達という存在は、とにかく色々とこちらの想像を刺激してくれるなあと思いました。ある人物から生み出された存在が、独自の意思を持って存在していて、好みを語ったり、変わらなくてはいけないと語ったりする。城の古い書物を読んだ、という話もしていたし。面白いなあ。伝達という、ウミネコから生み出された存在が、独自の意識を持っているとしたら、ウミネコが必要としなくなった瞬間に消える、その時も、当然独自の感情を持っているのかな、と。それを考えると余計に、あのラストの伝達の表情に色々なものを勝手に見出して、こみ上げてくるものがあったりしました。


ヤツガシラが城側の人間の居住地に忍び込んで、刑罰に罰を与えられようとする場面が好きでした。もっと言うと、ヤツガシラから搾り出された「できません」という声と、それを聞いて顔色を変える刑罰と伝達、というその絵が、もうしびれるくらい好きでした。震えながら拒否するヤツガシラを、刑罰は驚愕と怒りがない交ぜの表情で、伝達はただただ驚きの表情で見ているシーンです。
刑罰という存在は、何となく城側の人間の象徴的な位置付けなのかな、と勝手に思って見てました。旅行記を見て、その世界の存在を知りながらも、今ある生活を捨てることが出来ない人だと。だからこそ、外の世界への憧れによって本来あるべき規則に縛られることの無くなったヤツガシラに対して、誰よりも激昂していたのかな、なんてことをつらつら考えてました。考えてみたら、支配する側の人間の方が支配される側の人間よりもずっと裕福に暮らしているのだから、よりこの世界に依存しているのかも。としたら、籠側の人間よりもはるかに現状に執着があってしかるべきだなあと。人形と見下してきた相手が、逆らうどころかあっさり自分が飛び越えられないものを飛び越えていこうとするのだから、たまったものじゃないんだろうな、なんて考えました。
林さんの存在感は、また池谷さんとは別に、舞台が抜群にしまるというか、芯が通るという印象です。貫禄もあってふざけることもできて、挙句拳銃とマシンガンを持っての見せ場で完全に輝いて見せてくれるのだから、もうずるいです。そういえば、ここでも林さんは拳銃を持っていたなあ。やっぱりみんな林さんに拳銃持たせたいんだね、と思ったものです。とにかく似合いすぎる(笑)「処刑だ」と静かに呟くところは怖くてぞっとしたし、上にも書いた、ヤツガシラの「できません」を聞いたときの表情も抜群だしで、林さんには外れがなさすぎます。


監視と評価については、ストーリーの進行に関わらず役割や心情がブレることがないので、そういった感情の動きよりはキャラクターの妙が印象的だった気がします。評価は、ストーリーがぐんと動く、人質に取られてからのあのシーンでの振舞いがなかなか猟奇的で素敵でした。間抜けなところは楽しいんですけどね(笑)壁と扉のことを説明している時、評価には、刑罰がヤツガシラの件で感じていたような憤りがまったくなくて、城の中の生活こそが至上だと心から信じている様子だったのが面白いなあ。多分評価のこの感じがこの世界では普通のはずで、そういう意味では刑罰も旅行記ウミネコの存在がもたらした小さな影響を受けた数少ない人物だったのかも。そういえば刑罰は旅行記を読んでるけど監視と評価は読んだ描写ってなかったなあ。そう考えると、ラストで監視が旅行記を拾っていった様子に、ちょっと面白い可能性を感じてしまう。
にしても池田さんの役作り(笑)ああいう良く分からない気持ち悪い笑顔の役、池田さん上手いなあ。『影ができるほどのタメ息』でもそんな役だった気が。評価が、城側の居住地に侵入したヤツガシラに「君にはもう点数すらあげられないよ」とあの笑顔で言うのがなぜかやけに印象に残ってます。
監視は、というか中澤さんは、いろいろと楽しすぎました(笑)おはなちゃんは当たり前として、なめこちゃんと本部長はしばらく忘れられない。肉体派の支配者というのが似合いすぎです。台詞回しとかやたらと堂に入ってるのもすごい。


最初に見たときに、とにかく「ああ家城さんの演出だ」と思って、本当に幸せだった私です。頭で考えるより先に、感性というか感情に訴えてくる演出だなあと。音楽の使い方のせいかな。目で見ている部分だけじゃなくて、耳に直接色々流れ込んでくるから、何となく衝動みたいな部分を揺さぶられる気がします。頭で理解する前に何かがわーっと湧いてくるというか。自分の語彙の少なさに愕然としてしまいますが(笑)、とにかくニュアンスで言うならそんな感じです。だから多分有無を言わさず好き!となるんだと思います。要するに大好きなんだろうな、私・・・。


久々に、本当に久々に、公演を見たあとに友達とああだこうだと話が弾みまくったものです。ストーリーそのものは多分それほど複雑でもなくシンプルなんだと思うのですが、いろんな場面において行間を読むことを許してくれるつくりになっているのが憎い。行間読んだり深読みしたりしたがりな私にはたまらないものがあります。世界観や設定の解釈の部分ももちろんなのですが、個人的に、キャラクターの感情について色々とああだこうだ考えるのが私はどうやら凄く好きみたいで、そういう意味でも余地があるのが嬉しい。
もちろんテーマがとても好きだというのもあるし、籠=城という世界もたまらない。「強い思いが無かったものを作り出す」という設定も、本当にやってくれるなーと悔しい思いです。設定そのものもそうですし、何かが存在するかのように思い込むというほどの思いの強さとか、それが逆に足かせとなって己を縛り付けるとか。ひとつのテーマにおける表と裏がしっかり存在しているあたり、なんというか、田所先生、相変わらず可愛げがないですね!


他にも何かもっとあったような気がしますが、思い出したら追記します。いつにも増して気持ち悪くてすみません。長くなってしまうのは、恐らく自分が感じていることをちっとも上手く言葉に出来ていないからです。もどかしい。とにかくとっても好きだったということだけは主張しておきたい(笑)
これだけ書いた上で、千秋楽後のトークライブでの演者さん・田所先生の話で覚えているところだけは、後ほど改めて書いてみたいです。