箱雑記ブログ

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愛の賛歌2009〜その男の愛を見て僕の愛は嘘臭くなる〜

今更ですが、感想のみざっくりと。話の内容をがっちりネタバレしてます。恒例のちょっと気持ち悪い仕上がりとなっておりますのでご了承ください。




年度末と年度始まりで地獄を見ていたわけですが、それでもどうしてもどうしてもこれだけは見なかったら後悔すると分かっていたので千秋楽を見てきました。これでその後仕事が更にどうしようもなくなったとしても本望だろう、と。


私はルミネでのベルベ再演を見て以来の愛の賛歌でした。乙女での愛の賛歌を見られていないので、間がすっぽり抜けていて、メインどころとラストシーン以外のストーリーや役柄がほとんど記憶から抜け落ちてる状態だったもので、2回目に見る公演なのにあらゆる展開を新鮮に見ることが出来ました。自分の昔の日記を探してみたら残ってなくて、ローカルでつけてる日記を探したら、ルミネ再演て2002年だったんですね。そりゃ私の情け無い頭では忘れる部分も多々あるはずだ。ただ、当時の私にとって、愛の賛歌はとてつもなく刺激的且つ衝撃的なお話で、ベルベを見始めてしばらくだった私の、家城脚本への信頼を確定したのはこれだったのでした。懐かしい。もちろん感動的でもあったんですが、それ以上に、頭の中とか胸の中とかをぎゅっと鷲づかみにされてめちゃくちゃに引っかかれるような、そういう感覚です。
ちなみにそのときのもうひとつの再演「てんごくとうちゅう」で完全に陥落しまして、それ以来の家城脚本信者です。「てんごくとうちゅう」もいつか再々演が見てみたいなあ。


本当になんというか、家城さんは本来美しく描かれるであろうものを泥臭く破壊的に描くんだなあと。むしろ衝動的という感じか。私はベルベの初期は知らないのですが、自分の見てきたベルベや乙女の最初の頃の家城さんの脚本て、特にそういう傾向があった気がします。その証拠なのかどうなのか分かりませんが、とにかく人がよく死んでいくんだよなあ。ブラックとかそういうことでなく、色々あってその果てに命を落としていくという描かれ方。最終的に命という途方もないものが関わるほどにそれぞれの想いを貫く人々を描いているということだったのかな、と。命を賭ける、とただ書いてしまうと陳腐に見えるけど、実際は命を賭けてしまうほどの人たちの凄みで溢れるお芝居なのですね。


真っ向から愛を描いて語るなんてことをやったら、どうしたって青臭くて照れくさくて上滑りになってもおかしくないのに、愛の賛歌で描かれる愛は、ひたむきさや優しさ切なさと同時に、死もエロスも憎悪も破壊も暴力も全て内包していて、とことんめまぐるしくて、でもそれぞれのベクトルはあまりにもシンプルにまっすぐに、まさに「余計なものをそぎ落として」存在しているように目に映ります。どれもこれも発するパワーが強くて強くてたまらない。
オカリナにもナースにもブタ子にも素にも、とことん迷いがなくて、それぞれの思う愛に向かっていく力が強すぎるなあと、改めて見ても思ったのでした。その中心にいるのがオカリナで、それを演じるのが中尾さんという妙は時を経ても本当にベストだなあと思わずにいられません。強い(といえば聞こえはいいがつまりはバッキバキ)眼差しでひたすら歩き続けるだけの姿に説得力がありすぎる。


オカリナの、「余計なものを捨てていく」というその過程が、いかほどのものかを思わず想像してしまうのでした。己の愛を足長に語るオカリナのあのシーンの中尾さんが素晴らしくて、がつんと打ち抜かれたものです。中尾さんの凶暴なまでのまっすぐさはちょっと凄い。ひたむきさよりも狂気をはらんでいるようでどきどきします。絶対に真っ当な愛の形ではないと思うのに、彼のもくろみは実はとてつもなく優しい愛に溢れた未来なんですよねえ。実現するために狂気を伴う困難さはあれど。そしてそれを成し遂げようとしているオカリナはこちらが戸惑うほど誇らしげなのがまた眩しい。
そんな桁外れの愛の表現に、周囲がどんどん己の持つ愛の形に迷いを抱いていく様子も、とても象徴的。まさにサブタイトルどおり、「僕の愛はうそ臭くなる」わけか。すごいなあ。本当に力のあるものは周囲を巻き込んでいくというのは、ある意味普遍的なテーマのような気もします。そもそも愛というのがテーマとして普遍か。だからこそ描き方が難しいと思うのだけど、こういう描かれ方をされるとやっぱり私は弱いなーと思います。


全てをそぎ落として愛に生きるオカリナとの対比としての足長の存在が、以前見たときよりもはっきり対比として見えた気がしてたんですが、公演終了後の家城さんのブログを見て納得。自ら余計なものを捨てて残った愛だけに走るオカリナに対して、失いたくないと思った愛を失って仕事(お家?)だけが残った足長の存在はとっても切ない。オカリナがただひたすら己の思う道を突き進む間、ずっと迷ったり疑ったりしっぱなしの足長、というのもこれまた切ない対比だなあ。耐える理性の男という役どころと、菊池さんの朴訥とした感じはやっぱりとっても合ってる!と思います。
それにしてもブタ子のピュアさところころ変わる表情、曇りのない満面の笑み、悲痛な泣き顔、全部が全部あまりにも素直で、見ているこちらの心にするっと入り込んできたものです。池谷さん素晴らしいなあ。足長が唯一心を開こうとする相手として申し分ない存在感。
そしてそれ以上にピュア、というかピュアを通り越した存在の耳あり法一が…というのも、また何と言うか、象徴的に思えるんですよね。頭であれこれ考えて迷って苦悩して…という足長は、結局この世界で一番シンプルな頭の持ち主相手に何も出来なかった、というのが。それにしてもオコチャさん、ああいうのすごく似合うなあ。


過去の愛の賛歌との相違点について一番印象が違ったのが、当たり前かもしれませんが素の存在でした。あと、一生懸命考えても私が見た愛の賛歌に派手子っていたっけ?とずっと思い出せずにいたのですが、お友達の作ってくれた配役見て納得。やっぱり居なかったんだ。素と黒子のエピソードが、ルミネで見たときの記憶ではそれほど残っていなかったのです。派手子がない素と黒子ってどんなだったっけ。家城さんの素が私にとっての最初の素だったので、それが結構強烈だったのですが、今回の押見さんの素はそれよりも可愛らしくいじらしい印象(笑)
あと、今回見てて思ったのですが、お話の中の素というより、素というキャラクターの設定そのものが相当ツボでした。お話のあっちとこっち*1を行き来できる設定クラッシャーな存在で、でもそれは素が不完全な存在だから、という。幽霊や妖精が子供の頃にしか見えないみたいな、そういう感じなのかな。その不完全さ故に黒子や派手子と関わることが出来る唯一無二の存在であり、ひとりぼっちでいた黒子にとってはたったひとりの他者であり。何がたまらないって、それがあくまでも「期間限定」であるという点。どうして「期間限定」ってこんなにも切ないんでしょう。高校サッカーを見てるときに感じる切なさも期間限定のなせる技のはず。*2その時だけ、その場限り、期限を過ぎたらもう会えない、出来ない、存在しない、という、その絶対の別れみたいなのが、本当にたまらなかったです。
このお芝居の創造主(=家城さん?)が、このお芝居をあちら側の世界から切り出してお芝居として作り上げた瞬間に、お芝居を形作るために黒子が登場するけれど、その黒子はあくまでお芝居を創造する側の存在だから、むしろこちら側の世界の住人なわけで、どれだけ舞台に出てきていても、決してあちら側と交わることはなかった、はず。もしかしたら黒子はあちら側の人=登場人物と関わるなんてことは知りもしないし考えてもなかったかもしれない。黒子が転換の場面で出てきたときに、ひとりでえっちらおっちらとセットを運んだりしていても、見ている側は別に何も思わなかったのに、本来誰とも関わることがなかったはずの黒子が、素という存在が登場して二人がどんどんきゃぴきゃぴ仲良くなっていくのを目の当たりにして、そこでやっと黒子は孤独な子だったんだ、ということが分かってしまうのが、もうね!最初に出てきたときだって黒子はひとりだったのに、素と関わって仲良くなって、楽しそうに遊んでいて、派手子から守ってもくれて、そうして素が完全体になった時に、たった一人創造する側に残された黒子の様子が、状況だけなら一番最初に出てきたときと同じはずなのに、もう切なくてしょうがない。
素が派手子を刺して、さらに完全体になってあちらとこちらを行き来できなくなったことで、黒子は本当に本当にひとりぼっちになってしまって、ひょっとしたら最初は恐らく知らなかったであろう孤独を知ってしまったのかもしれないのに、それでも素にありがとうと言うのだなあと…。この先黒子が誰かにありがとうと呼びかけることは二度とないかもしれない。たったひとときでも、孤独ではない時の喜びや幸せを教えてくれた存在に向かってのありがとうはたまらないものが。今回の不覚のひとつは、田所さんにぐうの音も出ないほど泣かされたという点です(笑)
素や黒子派手子の存在を掘り下げはじめたら絶対にきりが無いと分かっているのですが、やらずにいられなかったです。大好きだったなあ。


ボンボンの関町さんは、まるで関町さんにあつらえたかのような抜群の当たり役ぶり。キザで変てこでちょっと変質ぶりも漂わせる歪んだ感じがぴったりでした。あの声のよさがキャラクターに合いすぎ。
シューレスさんの神父に太田さんの旅のコックもとっても合ってたなあ!私あの二人のちょうどいいだの貰いすぎだののやり取りが大好きなんです。とっても家城さんらしいと思う(笑)太田さんは普段ジャングルポケットではかなりかっとんだボケ役なのに、ああいう真っ当な常識人キャラをやっても全然違和感がないというのが面白いです。逆に普段真っ当にツッコミ役に回っている武山さんが、あの濃い医者役をきっちりこなしてるのもいいなあ。ジャングルポケットは振り幅の広い人たちが集まってるんですね。そして斉藤さんの素晴らしき存在感。もうずるいとしか言いようが無い(笑)普段から濃いあのキャラを、ああも違和感なく芝居に組み込んでくるのだから恐るべしです。
女性陣も本当に素敵だったなあ!松崎さんは生き生きとしつつも悲壮感も滲んでくるしっとりとしたナースだったし、伊藤さんの奥様はもう、文句の付け所がない(笑)普通に女優さんとしても素晴らしい方だと思うんですけど、コメディエンヌとしてあの斉藤さんと並んで霞まないというのはどういうことだろう。また和服が似合いすぎて、色香なのです。素敵だー。
あと、再演で見たときにあったかどうか忘れてしまったのですが、黄身お嬢様が「私が男なら」と自分の出生を悔やむシーンがすごく好きでした。黄身お嬢様の、富豪の娘なりの苦悩というのは、黄身お嬢様の存在をぐっとリアルにしてくれたなあと。


そんなところです。全然まとまってないなあ。家城さんのお芝居は、ひとつの感情を追っかけるだけじゃすまなくて、正も負も全部ひっくるめた強い感情でもって心をがりがりと引っかかれる感じなのが、やっぱり好きだなあと思いました。

*1:お話の中と、お話の外=観客のいる現実の世界。

*2:例えば「放課後アゲイン」とか「黄昏」に通じるのも、「期間限定」だった特別な時間を思い返すが故の切なさではないかと。