箱雑記ブログ

色々まとめています

土日。告別ショー。


この間のロックンロールカラオケナイトで馬場さんが100sの『扉の向こうに』を唄っていたのを聴いて以来、この曲の入っているアルバムOZをエンドレス。中村一義100sも周りの友人に比べたらそこまでがっつり聴いていたわけじゃないけれど、OZだけは延々聴いていた思い出。どれも好きだけど『Honeycom.ware』がのけぞりすぎて背骨やりそうなくらい好きです。
嶋佐さんがDragon AshのFANTASISTAを清和さんと唄いだしたとき、本物の本気!と色めき立ったんだけど今考えるとちょっと間違ってる。ニューヨークのFANTASISTAのネタ見たくなった。あと、FANTASISTAはサッカーよく見てた時期のW杯の公式アルバムにあって大好きだったのもあってより色めきたった。

週末の、マンボウやしろ告別ショーのこと。結局2回見ることが出来て、結果的にとても良かった。
1回目見たときに、あまりにも体力を持っていかれてしまって、そういうことを強いるほどの内容だったのだな、と。考えてみたら、家族のそれぞれの人生を一からつないでいく様を見ていたのだから、そうなるに決まってる。1回目を見て、これをもう1回見るのかしんどいぞ、と思ったけれど、勿論2回目見に行くし、見たらやっぱりよかった。
人は不老不死を手に入れると同時に愛を失う、愛を失うことは退化だし愚かだと言い切るキャラクターが出てくるのを見て、不老不死という共通のキーワードが使われていた『時代に流されろ!』を思い出すのはきっとみんな同じ気持ちだったと思う。『時代に流されろ!』で愛に抗えず時代に流される決断をする男を描いた家城さんが、告別ショーで不老不死は愛を失うことだと言うキャラクターを持ってくるの、面白すぎるなあと。あの人は不老不死について一体どれだけの思考を費やしたんだろう、と気が遠くなる。
今回の告別ショーのお話、あれだけの殺意を持つに至るだけのことがおきてて、それでもやり直すことって出来るのかな、とそれをずっと考えていたのだけれど、愛ゆえに殺したくなるのであればそれはあくまで愛が大本にあるのだから、そこに立ち返る、我に返るきっかけがあればうまくいくのかな。
殺したい方と殺されようとしている方が双方殺意を向け合っていたらダメかもしれないけど、少なくとも父の殺意を家族は知らずに(次郎が何も告げなかったから)いたから、修復できるのかも。相手の殺意を知っていたら、殺意の持ち主がどれだけ後悔しても、殺意を向けられた側はその恐怖を一生忘れないんじゃないかと思う。
次郎は色んな意味であの家族を救ったのだな、と勝手に納得する。猿は去る、で居なくなってしまった次郎は、言葉を知ることで概念を得てしまって、他のどんな猿よりも不幸な存在になって、あのままどこへ行ったのか。気になるー。大好きな家族を救えたことで、次郎が救われたんだとしたらいい。
ここまで書いて、こんなことを考えてたわけでも書きたかったわけでもないような気がしてきた。難しい。

家城さんのお芝居は音楽と密接につながっていて、音楽のライブを見ているといろんなアイデア?構想?が頭に浮かぶとご本人が言っているくらいだから、音楽ありきで作られているくらいの印象がある。今回の告別ショーも、劇中で使われているあらゆる音楽がお話とリンクしていた、んだと思う。私は全然詳しくないからその意匠をどこまで汲み取れていたかは甚だ疑問だけど。

以前、velvet under//misinという、やしろ劇団の前身の前身のそのまた前身みたいな芸人さんの劇団の舞台に、『ガーベラ』という公演があった。スピッツのガーベラという曲が肝に置かれてるお芝居で、そのお話を作ってるときの話をどこかで家城さんがしてたことがあって、強烈に印象に残っている。文言やニュアンスをはっきり覚えてはいないけれど、「脚本を書くのに煮詰まっていて、なかなか話が思い浮かばなかった。ある日スピッツのアルバムをかけっぱなしにしていたところ、ガーベラが流れてきた瞬間頭の中に一輪の花(あるいは花のような女でしたか?ごめんなさい記憶が曖昧です)が立っている場面が浮かんだ。そのイメージから一気に脚本が書けた」みたいなこと。
舞台『ガーベラ』のラストシーンは、愛のために戦ってぼろぼろになって命を落とした女(家城さん)がぼろぼろのまま舞台の真ん中で立ったまま絶命しているもので、それはもう美しかった。

家城さんが作る舞台は、そういう初期衝動的なイメージに従順に作られているのかな、と勝手ながら想像する。だから見ていてやけに心を奪われる図に遭遇することが多いのかもしれない。『愛の賛歌』のラストシーン。『エクセレント!!』の最後の指揮のシーン。『時代に流されろ!』の文字と音の奔流のシーン。とか。
勿論ぜーんぶ100パーセント私の勝手な思い込みなので全部そんなわけない可能性が大なのは承知の上で、なんとなく、そんなことをずるずると考えてしまうくらい、印象的な構図が今回もあった。ラストの、家族4人が並んで、言葉で人生をつむいでつなげて結びつけていくシーン。泣いてしまうよあんなの。誰かの人生が見事に表現されたときに、それが胸を打たないわけがない。

『時代に流されろ!』が役者さんに出演者を変えて本多劇場で再演、と聞いて、ぞっくぞくした。マンボウやしろ作品でいったら、最近一番衝撃を受けたのはこれなので。あれを本多劇場であの俳優陣でやったら、どんな恐ろしいことになるだろうと今から背筋がびりびりする思い。
演劇のことも全然詳しくないから、私にとって刺激的且つ衝撃的且つ圧倒的だったあのお芝居も、本当の(と言ってしまったら変なニュアンスに聞こえてしまうかもだけど、あえて)演劇の世界ではよくあるものだったりなんてことないものだったりするのかもしれないけれど、それでも、少なくとも自分という一個の人間の頭の中をぐっちゃぐちゃのめっためたにしてのけたあのパワーは尋常じゃないものだと信じたいな。
そういうパワーを再確認しに見に行く。とかそういうの実はどうでもよくて、単にもう一度圧倒されたいから見に行く。
昔から今の今まで、私にとって家城さんという人は、自分の中の「圧倒されたい」欲を意図的に満たしにいける数少ない存在のひとつです。いつだって自分の想像もつかない何かに圧倒されて打ちのめされて跪きたいんです。
ちなみに、あんまり語られてない気が勝手にしてるけど、『ビリビリ始まる』も凄かった。少なくとも私から見たあのお芝居はとんでもなかった。

告別ショーの中身とは全然違う方向の感慨として、坂田さんが家城さんの舞台に出てるってことにも色々とじんわり感じるところがあった。ジョビジョバは、お笑いを見に行くようになるよりもずっと前から見ていて、それこそカリカを知るよりも何年も前に家族みんなで見て笑っていた人たちだったので、10年とかじゃ全然足りないくらいの時間を経て、好きだった人たちが邂逅してる、ていうか単純に仲良くなってる、ということに、ひたすら感じ入る。感じ入るというか、変な気分だった。ここ繋がっちゃったよ、嘘みたいだよ、という。家城さんの単独ライブに坂田聡。嘘みたいだよ。人生って本当に何も予想がつかない。何が起こってもおかしくない。嬉しいこともかなしいことも吃驚するようなことも。


19日の日曜は遮二無二も見た。コント師5組の新ネタ×2本のライブ。新ネタなのに毎回ちゃんと面白いのも凄いけど、今回は4分ネタが5組とも面白かったのでいいなあ!となる。うるとらブギーズの魅力を知るきっかけになったのもこのライブだった。毎回新ネタとは思えないくらい仕上がった面白いコントを2本ずつ、しかも時間をきっちり合わせてもってくるうるブギさんのかっこよさ。
お客さんが100人切ると即終了のこのライブが、毎回ギリギリ踏みとどまりながら定期的に続いていくのがとても嬉しい。シンプルでストイックなよいライブだから末永く続いて欲しい。

ブログを書くことは自意識と欲求との折り合いをつける作業みたいなところがあって、自意識をこじらせすぎてるところがあるから駄目なんだろうけど、書いてる間中自意識とのせめぎあいがある。単に書きたいだけの欲求の方が絶対にかっこいいと思っていて、自意識が書きたい欲求を上回ったらかっこ悪く見苦しい記事になる、と思う。あくまで私の場合。
なので、なるべく衝動的に書きたくなったときにだけ、なるべく感情を出しすぎないようにして、書くのがちょうどいいんだろう、と思っているのだけど、昨日、たまたまランパンプス寺内さんのブログを拝読したら、「ブログを書かないと自意識が下がる」というような内容があり、その書きっぷりがちょっと新鮮だったので、おお、となった。芸人さんという生き方のための自意識は一般人のそれより種類の違うはるかに大事な要素だというのは大前提として、ブログ書くのが自意識とのせめぎあいな私には、書くことで自意識を保つという意識は面白いし新鮮。
あと、「目立つのが好きで内心ナルシスな自分とめんどくさがりの自分を天秤にかける」というあたりとかはもう、本当に、分かるわーと。こんなに長く自分と付き合ってきた中でいつまでも飼いならすことのできない煩わしい自意識さえも、あっさりと凌駕する「面倒くさい」という衝動のチートさ。なんとかならないものか。
ランパンプス寺内ゆうきの「カワイコちゃん連れてきましたよー!」- なんだか