箱雑記ブログ

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夜のプロトコル・アカデミー「現代漫才論序説 〜M-1から見る漫才の現在形」

たまたま、本当にたまたまネットで見つけたイベント、というかなんというか。たまたま見つけたわりには、あまりに面白そうで、いろんな予定を整理して、知らない世界に飛び込むような心意気で見てきました。
米粒写経サンキュータツオ氏を講師に、漫才を論ずる、というトークイベントで、氏は大学の非常勤講師でもあり、お笑いを研究なさっている方でもあり、現役の漫才師でもあり。私が氏について知っていることはほとんどなく、M-1の予選で何度かネタを拝見したことがあるのと、漫才バカ一代を一度見に行ったことがあるのと、とりあえずご本人のブログ*1が面白いということくらい。
正直、基本無学で論文の書き方も知らない人様の講義を聞く技術もない私にとって、ハードル高すぎないだろうかと不安半分だったのですが、参加してみたら何も心配はありませんでした。本当にすごい人というのは、高度な話を普通の人にも簡単に分かるように説明したり理解させたりできる人だということを、改めて感じたのでした。以下はただの感想です。




2時間ちょっとがあっという間で、可能であればもっと聞いてみたい!と切実に思うくらい、面白かったです!M-1というパッケージを中心に、漫才を「印象批評でなくもっと違ったアプローチで評論する」という主旨、と解釈しました。この場で氏によって説明された、印象批評でなく漫才そのものの仕組みやスペックでもって分析していくというやり方が、とてつもなく面白かったです。
なんというか、私が普段ネタを見ながら、なんとなーく感じてはいたものの、わざわざ言語化しようと思わなかった、もしくは言語化したいけど上手く出来なかったものが、どんどん言語化されて、形になって、頭にすいすい入ってくるんです。本当に驚くほど明確に言語化・パーツ化されていって、あーそうそう!と何度も頷いてしまいました。久々の感覚だったので静かに興奮してました。この言語化作業が、どれだけの時間と情熱をもってこれだけの情報として形成されてきたのかと思うと、すごいすごいとバカみたいな感想しか出てこないのがもどかしいくらいで。
例えば、私がナイツの漫才を見ていて「題材は絶対に誰もが知っているものでないと成り立たないよなあ」程度にぼんやりと考えていたものを、氏は『フレーム(スキーマ)』という言葉でもってすっきりとまとめてくれるのです。フレーム=単語ひとつで聞き手の頭の中にひとつの情報として形成されるもの、前提、みたいな説明だったと思うのですが、要するにそれをひとつ提示することによって、その前提を裏切る単語ややりとりだけで効率よく笑いが起きる、と。つまりナイツの漫才は、『「コト」フレーム』をフル活用した漫才である、ということになるんです。
こういう、常日頃頭の中にあるぼんやりしたままの認識程度のものが、きちんと言語化明文化されてどうぞと目の前に差し出されてくるのです。漫才という人の手で作られたものの中にあるシステムの存在が、氏の手によって日の目を見るのです。魔法みたいだーとずっと思ってました。これだから研究という作業は偉大なのだと実感。研究というのは生み出す作業なのだなあと。そしてそれを惜しげもなく聴衆である我々に教えてくれる。しかもとても分かりやすく面白く教えてくれるんです。これだけの話をあれだけよどみなく、しかも分かり易く提示するということは、ここに至るまでに途方もない思考を繰り返しているのだろうと思うと、それだけでも凄い。


これは本当に話の一部で、他にも色々、M-1は手数の競技であるとか、M-1における手数(=笑いの起きた数)の生み出し方の変遷であるとか、漫才を書き起こしたことによって分かる漫才内での縦と横の関係であるとか、しゃべくり漫才と漫才コントのそれぞれの特徴であるとか、その変遷であるとか。
全編通して刺激的でかつ面白くて、凄い凄いとずっと思いながら見てました。これ、書籍化をぜひともしていただきたいです。すごく読みたい。プロジェクタに映されてたレジュメも出来れば欲しかったなあ。面白すぎるテキストだらけだったので。


ただ、私のような修行の足りない人間の場合、こういう話を聞きすぎると、ネタを見ると「笑う」から「分析する」に頭が傾いてしまいそうで、なかなか恐ろしいです。この漫才論が抜群に面白くて魅惑的であるだけに、余計にそう思いました。そこを上手く切り離して見られるようにならない内は、知り過ぎないようにするのも大事かもしれない。実際、最後の方で氏もそんなようなことをちらっと話しておられたような。


これも印象的だったことですが、「芸人はお笑いのことを凄く考えているが、それをなかなか外に出すことがない」と。多分芸術の人とか音楽の人とか小説漫画の人とかは、ものを作るに当たって考えていることを語っても違和感がないけれど、芸人さんは笑わせるということに特化した専門職の人達だから、そこらへんの事情が特殊なんだろうなあと何となく思って納得。笑わせることと真面目でないことは別物だとは、頭では分かるんですけど、やっぱり印象ってものは強いんだろうな、とか。こういうこと考えて作ったんだーと思いながら見る漫才は、なかなかハードル高い気がします。
つくづく笑いってデリケートなものなんだなあ。それとも笑いでなく、笑いたい人間がデリケートなのか。


とにもかくにも、本当に面白い時間でした。ずっと目からウロコ。何より、印象評論てどうなの、という、冒頭のツカミで私はすっかりつかまれたのでした。そもそもこの冒頭から、難しいことをいともたやすくこちらに伝えてくれるという、その手法がもう素晴らしいと思ったのです。受け手としてなら、印象批評よりシステムを批評する方が、する方も読む方もきっと面白いよね、と思えましたから。
あと、「お笑い自然主義」というカテゴリ(ボケがあってツッコミがある=お笑いロマン主義)に、おぎやはぎと並んでPOISON GIRL BANDの名前があったことで、自分の中ですごーく腑に落ちるものがありました。そうだわーそれだわーと(笑)氏はポイズンの漫才について、「ボケに対してツッコミが核心をつかない」「どんどん客から離れていくツッコミ」という話をしていて、申し訳ないんですけど大笑いしてしまったのでした(笑)腑に落ちすぎた!そして氏が一例として持ち出したのがスフィンクスのネタであった時点で、私撃沈です。いちポイズンファンとして、なかなか感慨深い瞬間でありました。お笑い自然主義について語りたい、というようなことを氏が話していたので、その機会があればぜひ立ち会いたいです。自分でも、何でこれが面白いんだろう、どこがポイントなんだろう、というのは一応考えるんですけど、それをきちんと言語化するにするには頭が弱すぎる(だから長文になるんですよね。探しながら書いてしまうので。)
そういえば、現代の漫才における特徴としてツッコミのフレーズ力であるとかバリエーションであるという点(ボケだけでなくツッコミが笑いを生む→手数が増える)を語っておられたのも、とても興味深かったです。基本的にツッコミのフレーズの意外性にテンションが上がるタイプなので。その最たるものが私の中ではポイズンでありキングであるんですけど。
氏のコントに関する話にもだいぶ興味があるんですが、漫才と比べてコントは、コントという名の「漫才以外の笑い」になってしまう気がするから、しばり無しにそれを論じるのも大変そうです。
友達複数にこのイベントの話をしたところ、次にこういう機会があれば行きたい、と言われたので、次の機会があることを熱望いたします。もしくは書籍化!ぜひ!


ところで、ものすごく久々にマキタスポーツ氏を生で見たのですが、ちょいワルオヤジ風の佇まいが素敵すぎて、なんだあのかっこいいおじさんは!とにわかにテンションが上がってしまいました。話してることは相変わらずの感じなのがまた(笑)